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- 2020.01.03 Friday
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初心者からプロを目指す人の為の「金継教室」
『金継宗家』では、江戸時代から伝承する、壊れたものに新たな価値を与えて蘇らせるという、素晴らしい蒔絵(makie)による正統な「金継ぎ」の技術を途絶えさせてはいけないという思いから、流儀の「金継ぎ」を後世に伝承していく為に「金継教室」を開講しています。
●金継教室 上級クラス生徒 稲葉さんの作品 [純金高蒔絵の金継ぎ]
●金継教室 中級クラス生徒 錦織さんと伊藤さんの作品 [純銀蒔絵の金継ぎ]
●金継教室 中級クラス生徒 小林さんの作品 [純金蒔絵の金継ぎ]
口の欠けたた西洋ンティークのテイーポット
物を慈しみ大切にする日本独特の"MOTTAINAI(もったいない)"精神は、
今も昔も変わらずに、私たちの中に受け継がれていると思います。
何でも簡単にものが手に入ってしまう時代だからこそ、一度割れてしまった器を、さらに価値あるものに蘇らせる「金継ぎ」が、今、世界的に求められているのかもしれません。
「金継ぎ」の歴史
日本の文化には、壊れた器を漆(コクソ糊)で接着し、純金蒔絵を施し修復して、再び器として使うことが出来るようにする「金継ぎ」という伝統技法があります。
「金継ぎ」の歴史は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての「茶の湯」(茶道)から始まった日本独自の修復技術です。
「茶の湯は、室町時代(15世紀から16世紀初め)に始まり、安土桃山時代から江戸時代初め(16世紀初めから17世紀初め)において,大名、豪族、富豪な商人が中心の、富と権力を持ったごく限られた男性の趣味【数寄(すき)】であり、社会的な上位者である権力者・知識人が愛好する「文化」ハイカルチャーであった。
「金継ぎ」は、次のような背景から生まれました。
戦国時代の16世紀後半、富豪な商人であった「茶の湯」の名人の、千利休が、時の権力者である織田信長や豊臣秀吉の茶頭(さどう:茶の師匠)を務め、日本の精神文化に多大な影響を与えました。
茶道具(茶釜、茶入れ、茶碗等)の名物(めいぶつ:有名でとても高価なもの)の大コレクターであった織田信長は、「茶の湯」を富と権力の象徴として政治に利用しました。
織田信長は、家臣たちに自由に、「茶の湯」の茶会を開くことを禁じ、戦いの勝利に大きな功績のあった家臣への褒美として、1国1城を与える代わりに、茶道具(茶釜、茶入れ、茶碗等)の名物を与え、「茶の湯」の茶会を開く許可を与えたのです。
名物の茶道具(茶釜、茶入れ、茶碗等)で「茶の湯」の茶会を開くことは、当時の大名たちが憧れた富と権威の象徴であったのです。
この様に、茶の湯に必要な茶碗は当然高価なものであったので、壊れてしまったとすれば、そのものに対する執着心は今よりも一層強かったことは容易に想像が出来ます。
「金継ぎ」のすばらしいところは、壊れた器を再び使うための修復だという点です。
器の割れ目をあえて目立つように、純金蒔絵(makie)で装飾するというのは、日本独特の美意識だと思います。
私が「金継ぎ」を始めるようになったのは20歳代から茶道の宗家に入門し、江戸時代初期の芸術家・本阿弥光悦が手掛けた、「金継ぎ」の赤楽茶碗の『雪峰(せっぽう)』と運命的に出会ったことから始まりました。
この『雪峰』は、茶人である光悦が窯傷を茶碗の景色と見立て、単なる修繕技術から、「金継ぎ」を造形美へと高めた記念すべき芸術作品です。
本阿弥光悦『雪峰』(畠山記念館蔵)
『雪峰』は、もともと窯傷の生じた失敗作だった茶碗を、茶人でもあった光悦が、朝日があたる雪の積もった峰のイメージとして見立てて、純金蒔絵の「金継ぎ」をした作品です。
「金継ぎ」の世界では、修復した跡を「景色」と呼び、修復前と異なる趣の、純金蒔絵の「金継ぎ」を施して唯一無二の珍宝に生まれ変わらせます。
私は、この『雪峰』を「金継ぎ」の手本として45年間、技を研いてきましたので、当然の様に、本阿弥光悦を『金継宗家』の流祖と思って崇めてまいりました。そして、我が流儀の「金継ぎ」を芸術の域に高めるために日々精進し、正当な「金継ぎ」を広く後世に伝承させることが私の使命と思うようになりました。
『金継宗家』塚本尚司 Showzi tsukamoto
白玉(鉛ガラス釉薬)で[焼き継ぎ]された伊万里の染付の器
※赤い釉薬で書かれた記号の焼継印(やきつぎいん)
※赤い釉薬で書かれた文字の焼継印(やきつぎいん)
日本独特の陶磁器を蒔絵で修理する[金継ぎ]は、蒔絵師が蒔絵で、主に茶の湯の茶碗等を修理する方法であり、江戸時代に[金継師]、[金継屋]といった専門の職人がいたわけではありません。その代り、江戸時代から明治時代にかけて、割れた陶磁器、主に伊万里の染付の磁器の修理を専門に行う[焼継師(やきつぎし)]、[焼継屋]という職人がいました。
江戸時代後期の寛政年間 (1787年〜1800年) 頃に、江戸や京都などで割れた伊万里の染付の磁器を焼継ぐという[焼継師(やきつぎし)]、[焼継屋]が登場します。
江戸時代の庶民にとって伊万里の染付の磁器は高価な貴重品であり、簡単に捨てることなどしなかったようで、約200年前の[焼き継ぎ]された伊万里の染付の磁器が各地の遺跡から数多く発掘されています。
[焼き継ぎ]とは、白玉(しらたま)と呼ばれる鉛ガラスの粉末とフノリを水で溶いて混ぜ合わせた釉薬を磁器の継ぎ目に塗り付けて接着してから、炉の中に入れて低温度(約800℃)で焼いて接合する方法です。白玉とは、珪石と鉛をいっぺん熔解して鉛ガラス(フリット)を作り、それを粉砕して粉状にしたものです。
ところで、今ではめったに落語の高座にかかることのない噺(はなし)ですが、
落語「両国百景(りょうごくびゃっけい)」では、「焼継屋」が持ち運びのできる小さな炉を使って大道(だいどう)で[焼き継ぎ]の商いをする江戸の「焼継屋」の様子が描写されていて、また、夫婦喧嘩をしている家の門に立ち、夫婦喧嘩で破損するであろう伊万里の染付の食器を修理するために「焼継屋」が待っている。
という川柳で、“焼き継ぎ屋 夫婦喧嘩の門に立ち” というのがあります。
当時高価であった伊万里の染付の磁器を買い替えるよりも[焼き継ぎ]は安価で、直して再利用できる修繕方法であったため「焼継屋」が大変繁盛していた様子が想像できます。[焼き継ぎ]で瀬戸物屋の売り上げが落ちるほどの影響が出たそうです。まさに、日本の江戸時代は、もったいない文化の最盛期のようです。
それから、[焼き継ぎ]された器の裏底には、[焼継師]が発注者を忘れないように描かれたものと推測される赤い釉薬で書かれた文字や記号の焼継印(やきつぎいん)のある事例が数多くあります。
[焼き継ぎ]は、透明な釉薬で接着するので修理の跡が判らなくなるというイメージが有りますが、実際には、白く濁った透明ガラス質の線状の盛り上がった継ぎ目に成り、疵口が目立ってしまい、私の知る限りでは綺麗な仕上がりの物は少ないようです。
金継宗家 宗匠 塚本将滋(尚司)
金継宗家 金継教室 http://urushiart.com/schoolroom.html
金継工房 http://urushiart.com/kintsugikoubo.html